この文章は坂口安吾のエッセイ『日本文化私観』に関して書かれています。このエッセイはかなり有名なものですから、おそらくたくさんの本でこの文章を読むことが出来ると思います。どれか具体的にということであれば、とりあえず手に入りやすいちくま文庫の『坂口安吾全集14』がお勧めです。
内容を一応紹介しますと、『FARCEに就いて』・『茶番に寄せて』・『文学のふるさと』・『青春論』・『堕落論』・『続堕落論』、そしてもちろん今から触れることになる『日本文化私観』と、まだ読んでいなければぜひ一読をお勧めしたいエッセイがずらり。ちくま文庫にはときどき腹立たしいほど乱暴な編集の本がありますけど、安吾研究の第一人者、関井光男氏が編んでいるだけにこの全集に限ってはそういうことはありません。
ISBN4-480-02474-3
定価=\1,080
ちくま文庫
さ-4-14
『坂口安吾全集14』
さて、坂口安吾という人は言うまでもなく文筆家です。エッセイも小説もとても良い。ひとつひとつ丁寧に読み込んでいくと実に豊かな鉱脈で、特に短編小説『白痴』やエッセイ『堕落論』あたりのザラリとした感覚というのは、日本文学の枠組みを軽く飛び越えています。
その坂口安吾がこの『日本文化私観』で、建築に触れながら彼独特の視点を語っています。もちろん彼は建築の専門家ではないし、その意味で「ごく普通の人」の意見を述べたものなのですが、しかしそれは生半可な「ごく普通の人」の意見ではありません。いろんな意味でとても面白い。あくまでも安吾が問題としているのは、日本文化とはなにか?ということなのであって、建築はたまたま採った題材に過ぎないのですが、でも建築に引き寄せて読んでみるにもなかなか面白いのです。
四部構成のこのエッセイの眼目とも言うべき最後の部分、『4 美について』に注目してみます。
安吾はここで三つの例を挙げて語っています。
まず、小菅刑務所。
非常に高いコンクリートの塀がそびえ、獄舎は堂々と翼を張って十字の形に広がり十字の中心交叉点に大工場の煙突よりも高々とデコボコの見張りが突起っている。次に佃島の聖路加病院の近所にあったというドライアイスの工場。
もちろんこの大建築物には一カ所の美的装飾というものもなく、どこから見ても刑務所然としており、刑務所以外の何物でもあり得ない構えなのだが、不思議に心を惹かれる眺めである。
工場地帯では変哲もない建物かも知れぬ。起重機だのレールのようなものがあり、右も左もコンクリートで頭上の遥か高いところにも、倉庫から続いてくる高架レールのようなものが飛び出し、ここにも一切の美的配慮がなく、ただ必要に応じた設備だけで一つの建築が成り立っている。そして「我が帝国の無敵駆逐艦」。
聖路加病院の堂々たる大建築。それに比べればあまり小さく、貧困な構えであったが、それにも拘らず、この工場の緊密な質量感に較べれば、聖路加病院は子供達の細工のようなたあいもないものであった。この工場は僕の胸に食い入り、遥か郷愁に続いていく大らかな美しさがあった。
それは小さな、何か謙虚な感じをさせる軍艦であったけれども一見したばかりで、その美しさは僕の魂を揺り動かした。僕は浜辺に休み、水に浮かぶ黒い謙虚な鉄塊を飽かず眺め続け、そうして、小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思い出していたのであった。これはいわゆる機能主義でしょうか?そうとも読めますけど、安吾はその程度のことを大見得切って主張するような書き手ではありません。安吾は妙な逆説をこねくりまわしたあげく、無理やり説得し共感を得るために文章を書くような種類の書き手ではないのです。
この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から付け加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取り去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。...(中略)...必要によって柱は遠慮なく歪められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。その他のどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成を阻む力とは成り得なかった。...(中略)...この「やむべからざる実質」が求めたところの独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。
ただし、このリアリティーというやつが曲者です。正直言って「問題はリアリティーである」と言い切ることは、どうも反動めいて鼻白む。そして、ここで折り返し安吾が問題になります。
文学史を少しでもかじったことがある人ならば先刻承知のことでしょうが、安吾はリアリズム小説をかなり執拗に批判し続けた存在です。リアリズム小説とはすなわち通俗小説に過ぎない云々。安吾にとってリアリティーとは、日常的な風景のことでは決してありませんでした。いや、日常的であるかもしれないけれども、それ以上にのっぴきならないもの、それを肯定しようと拒絶しようと目の前にどうしようもなく在るもの。そうしたものがリアリティーであって、それはいわゆる「日常の一コマ」なんていう気の抜けたおめでたさとは無縁です。例えば、カフカの『変身』、男がある朝目覚めてみると大きな毒虫になっている自分を発見する話は、一般的にはむしろアレゴリカルな話であってリアルな話ではない。しかしそのようなのっぴきならない事態との直面が安吾にとってリアルなのです。
そしてそのようなリアリティーとは、要するに、「他者」との不意の対面のことです。「私」にはどうすることもできない見知らぬ「他者」が、不意に無遠慮にぬっと顔を出すような瞬間が、リアルなのです。慣れ親しんだ風景を切開し、それを一気に転倒させてしまうような圧倒的なもの、あるいはそうしたものの潜在=被隠蔽/顕在=露頭を今さらながら思い知らせるもの、そうしたものがリアルなのです。
例えば、小菅刑務所においては、なんらかの必要、それが具体的になんであるかはよくわかりませんがともかくなにがしかの必要が、一方的に形態を成し、姿を現わしたように安吾には見えた。そこで安吾は「他者」の異様を見て打たれるわけです。小菅刑務所自体は問題ではありません。下に見るようにそれ自体はそうたいしたものであるとは思えないのです。そうではなくて、安吾がそれを見たときに、例えば「日本伝統の美」のようなフォーマルな美学など気にもとめず突き抜けていく、見知らぬ圧倒的なものを見たこと、そのことだけが問題なのです。
例えばアドルフ・ロースはその主著『装飾と罪悪』で、上に引用した安吾の文章と見かけ上かなりよく似た論法を用い、装飾を排除した地点における今日的な建築をうたいあげましたが、それ自体はほぼ機能主義に還元可能な程度のものです。彼の場合見るべきはそれに対して、いわゆるラウム・プランと呼ばれる平断面的な空間の扱いであり、彼の「他者」は「空間」だったと言うべきでしょう。その意味で彼は本質的に「建築家」です。
安吾の場合はそれに対して、建築に関してはいわばシロウトであり、したがってそのようなかたちで他者を持たなかったために、かえって建築の威力が抽象的に、したがってなお明確に看取されたと言うことができるように思います。彼は基本的に小説の美に関する意識へ上記の問題を接続するわけですが、だからこそ建築の美に関する視点は可能な限り抽象的であらねばならなかったはずなのです。そしてそのことが機能主義が一個の美学に過ぎないことを知っている我々にとって、彼の抽象力を援用しながら次の一投擲に接続することを可能にしています。
小菅刑務所、司法省営繕課、蒲原重雄設計、1930年
図版は『新訂版近代建築史図集』、日本建築学会編、彰国社刊から
一見してわかるとおりあくまでも表現主義。安吾の印象は教科書的に言えば的外れだが、上記の通りそれは問題ではない...。
written by nhino@osk2.threewebnet.or.jp